私は常に戦っていた。
私は常に戦う状況に自分を追いやっていった。
私は何もかもを投げ捨て、何もかもを追い立てて、今右手に持っているラケットと左
手に持っているテニスボールに全てを賭けてきた。
しかし…
私には、それしか残らなかった。
これしか…残らなかった。


第六話 一応の決着

時速100キロ
これが、現在のアイビスが投げるボールの速度であった。
中学一年生リトルリーグ全国大会にて141キロを記録したアイビス・ダグラスの面
影は何処にも無かった。
しかも、コントロールにも制裁を欠き、何よりもボールが軽い。
この現状に、ピッチングコーチであるヴィレッタは深い溜息を吐いた。
決戦は明日で、野球に関してはズブの素人であるスレイに負ける事は無いだろうが…
そこが不気味なのである。
スレイは、この勝負に関して絶対的な勝利の確信を持っている。そうでなくては、自
分から野球勝負を申し出るはずが無い。
その自信の源が見て得てこない原状では、今のアイビスでは不安が残る。
「オッケーだ、もう上がって良いぞ…」
「はい…」
アイビスにも自分の投球の状態が分かっているのか、声は沈んでいる。
ヴィレッタは、こういった状態の生徒にどういった声を掛けて良いか分からない。術
を知らない。
自分の非力さを噛み締めながら、アイビスがロッカールームへ消えてゆくのを黙って
見送った。
「どうだ…?アイビスの状況は」
ゼンガーは非常に沈んだ表情のまま、ヴィレッタの方へと歩み寄ってきた。
「お子さんの事は宜しいのですか?」
「ん…?ああ、今日にでも帰す」
昨日の一件は、お笑いモノだった。あの硬派なゼンガー監督が娘の事になると…あの
有様だ。ヴィレッタも思わず笑みを浮かべてしまう。
「それよりも!明日のことだ…」
非常に良くない事は、監督にも分かっているのだろう…
スレイに対して異常なまでの不気味さを感じているのは、ヴィレッタだけではなかっ
たと云うことだ。
「良くは無いですね…球速以前に、球が軽い。あの分ならアラドでも楽々スタンドに
叩き込めますよ」
「精神的なものか?」
「ええ…フィリオ・プレスティの事でしょうね…」
「ふむ…」
一つの溜息を吐くと、ゼンガーは腕組をしたまま黙り込んだ。
八方塞、崖っぷち。背水の陣を組んでも乗り越えられるかどうか…
例え、この危機を脱したとしても、アードラーは再び新たなる刺客を送り込んでくる
だろう。
「しかし…今はアイビスを信じるしかありません。こればかりは我々にはどうしよう
も…」
「その通りだ。この程度の事で潰れるようなら…最初から甲子園など行けない」
ヴィレッタの言葉に、強く頷くゼンガーであった。


身体中が痛かった。
身体がどうしようもなく痛かった。
たった四ヶ月で甲子園に行けるチームを作ろうとしているのだ、毎日血反吐が出るよ
うな練習を繰り返している。身体の一つや二つ痛くなる。
しかし、実際痛いのだ。絶えられないほど。
「フィリオ…」
ここで、アタシは最も慕う人間の名を呟く。
いつも笑みを浮かべ
いつも楽しそうで
いつも夢を持っていて
その夢をアタシが台無しにしてしまった人
だからこそ、アタシは彼の元から去ったのだ
しかし…
『彼は夢を掴めぬまま、死んだ…君が憎しみを持つことは致し方ないことだろう』
彼は死んでいた
彼はもうこの世界には居なかった
何か、一つアタシの心の中から消えた
もう、死んでも良い
もう、死んでも良い
もう、死んでも良い
何が野球だ
何が甲子園だ
何が…何が…
シャワールームへと通じる通路を、身体を引きずる様に歩いていたアイビスが不意に
崩れ落ちる。
その表情には何も無かった。
怒りも悲しみも喜びも、何も無かった。
「アイビス…」
目の前で一人の少女が声を発した。
ツグミ・タカクラだ
気にしなければ気にならないほどの、小さな声でアイビスを呼んだ。
生気の無い、全くの無色な瞳で目の前で心配そうな表情を浮かべるツグミに視線をや
る。
「何処か痛いの?」
「…」
「何処か苦しいの?」
「…」
「何処が…悲しいの?」
どうかしていた
アタシはどうかしていた
こんな図々しくて、人の部屋に勝手に居座って、腹黒くて、考えている様で考えてい
ない無計画・無責任な女の言葉に、アタシは…
アイビスの瞳に、無色の何も無い瞳に大粒の涙が溢れてきた。
自分が殺したも同然なのに
自分が殺したと同意なのに
自分が殺したと同じなのに
涙を流す資格なんて、完全に、完璧に存在しないハズなのに。
この溢れ出てくる涙は何だろう?
この溢れ出てくる感覚は何なのだろう?
「あ、アタシは…ふぃ、フィリオ、フィリオの夢をぉぉ!!」
「例え、アナタがフィリオの夢を潰したとしても、アナタがフィリオの夢をぶち壊し
たとしても…」
「あ、アタシのせいでぇ…アタシのせいでぇぇフィリオが、フィリオがぁぁ!!」
「例え、アナタがフィリオの死の原因の一翼を担っていたとしても…」
「フィリオがぁぁ…フィリオォォ!」
「アナタがフィリオの死を悲しまない理由にはならないわ」
「ああああああぁぁああぁぁあぁ!!」
アイビスはその場で泣き崩れた。
これ以上無いと云う程、彼女は泣き崩れていた。
大声を上げて、何もかも関係無く。ただ泣いた。
ツグミは優しい、柔らかな表情のまま、蹲るアイビスの横で腰を下ろし、包み込む様
に彼女を抱きしめる。
「フィリオが死んで寂しいでしょ?」
「うん…」
「フィリオが死んで苦しいでしょ?」
「うん…」
「フィリオが死んで痛いでしょ?」
「うん…」
「フィリオが死んで…悲しいでしょ?」
「うん…」
「それで…それで良いの…それで」
アイビスはツグミの服の袖を力強く握り、彼女の中で一頻り泣いた。
一頻り…泣いた。


私の人生は勝利の為にあった。
私が歩んで来た道は勝利の道であったし、これから歩むべき道も勝利の道である。
これは揺ぎ無いものであり、決して揺るいではならないものである。
しかし…
何時からだろうか?
勝利への道への興味が薄れたのは?
何時からだろうか?
勝利への飢えが無くなったのは?
何時からだろうか?
分かっている。理解している。
それは兄さまが死んだ時から
それは兄さまが私の目の前から消えた時から
私の勝利は、私の為でも兄さまのモノでもある。
だからこそ、私は勝利への興味が無くなっていたのかも知れない。
しかし
その兄さまが夢を託した女が、夢破れて、こんな落ち毀れの吹き溜まりでノウノウと
生きている事だけは…許せない
許せるはずが無い
スレイ・プレスティは急遽取り寄せた鉄バットを片手に、某所のバッティングセン
ターに赴いていた。
マシンから放たれるボールをバットに当てようと、必死に力任せに振るがボールは
バットの上に当たって後ろに逸れる。
これで30球目だ。
「ハァ…ハァ…」
最初は軽い気持ちだった。
野球の感触に触れたかったし、何の用意も無しにアイビスと当たる事は、たとえ負け
犬であろうとも危険極まり無いことだと思っていた。
しかし、その認識が甘かった。
テニスのサーブよりも格段に遅い球速であるにも関わらず、ボールがバットにミート
しない。
当たる事は当たる、しかし、ボールは前へと飛ばない。
30球終わって、このバットにボールを当てると云う行為は、ラケットにボールを当
てると云う行為と全く別物であり、テニスにて身に付けた技術は何一つとして通用し
ない事が痛いほど分かった。
どうする…
スレイの心の中で、ここで初めて焦りが生まれた。
決戦は明日、しかし、私は時速90kmのボールを前に転がすことすら出来ない。
「どうする…」
バッティングセンターに備え付けられている時計に視線をやる。午後9時を廻ってい
る。つまり、残り10時間。
とにかく、圧倒的に時間が足りない。時間が足りなすぎる。
「どうしたんだ?」
男の声だった。優しげであるが、声の中に厳しさを残した男の声だった。
スレイが振り返った先には、パーカーにジーンズ姿で軽く茶のメッシュがかった髪を
持つ、端整な顔立ちの男が立っていた。
肩にはバットケースを担いでおり、うっすらと日焼けしていることから野球選手であ
ろう。
しかし、彼から発せられるオーラの様な、独特の雰囲気は何なのだろう?
「だ、誰だ?」
「別に、名乗るほどのものではないが…どうにも必死な形相をしてバットを振ってい
たので、気になってな…」
「構わないでくれ…」
「今のままじゃあ…打てないぞ?」
「…」
その男の言葉に、スレイがピクリと反応する。図星を突かれた。
打てないのならば、アイビスに勝てない。自分が負け犬と言い放ち、わざわざ相手の
ホームグラウンドで戦う事を自分で言い出したのだ…
負けは許されない
負ける事は許されない…
「指導してやろうか?」
「…」
「意地を張っている場合では無いんだろ?」
「…」
「訳は聞かない…」
「何故だ?」
「何がだ?」
「何故、見ず知らずの私を助ける?」
その言葉に、男は一つ笑みを浮かべて、こう呟いた。
「昔、そんな顔をしてバットを振っている人を見てな…あの時は助けられなかった。
助けるような技術も言葉も無かった。しかし、それを助けた男が居たんだ…俺が最も
尊敬している男だ…見事に助けたよ…。だからこそ、その男の真似をしたくなっただ
け…かな?」
何かはにかむ様に、何故自分でもスレイにこんな台詞を言うのか分からない様子であ
るが、その言葉には嘘は無かった。少なくとも、スレイにはそう感じられた。
「さぁ、それじゃあやるか!」
男はスレイの了承を取ることも無く、彼女の手からバットを取り、マシンを駆動させ
る。
マシンは静かに機械音を響かせ、白い硬球を100kmの速さで送り出す。
次の瞬間、男の顔が引き締まる。瞳が鋭く光る。背中から何とも形容しがたい、鋭い
雰囲気が噴出す。スレイは不覚にも男そのものに気圧されてしまった。
快音
鉄バットが硬球にミートし、鉄バット独特の反発力を使わずに自らの力でボールを弾
き返す。こうすることによって、力任せの鋭い当たりではなく、華麗な放物線を打球
は描く。最高の打球である。
スレイは唖然とする。この男は只者ではない…と直感する。
「君は多分、テニスか何かをしているのだろう。しかし、テニスでは絶対してはいけ
ない、ボールを叩きつけると云う行為が野球では必要になってくる」
男は淡々と話し出した。話しながらも、次々と送られるボールを右・左・中央と打ち
分けている。バットコントロールも凄まじいものである。
一通りボールを打ち終えると、一つ溜息を付いて、スレイにバットを手渡す。
「今、見た通りバットを振ってみろ」
「あ、ああ…」
バットを手に取ると、目の前で男がやっていたように振ってみる。
「違う、手で打とうとするな。腰で打て。後、身体の重心移動をしっかりと」
「くっ…」
男の言うとおり、腰を意識して、もう一回素振りをしてみる。
「重心移動!」
その言葉に、一つ深呼吸をして呼吸を整えると、腰を意識して、一度引いた重心を前
方に解き放つが如く、しかし前に突っ込まずに…
振った
ブン!と、空気を切る音が響き、余韻を残して後ろへと勢いを逃す。
「うん…それだ!」
男は笑みを浮かべて、スレイに親指を立てる。
自分でも良く出来たと思う。僅かだが、光明が見えてきた。
しかし、目の前の男の表情は瞬きの瞬間、厳しく引き締まっていた。
「しかし、実際ボールが飛んでくる状態で、このバッティングフォームを保ちつつ
ボールをバットにミートさせる事は至難の技だ…こればかりは回数をこなさなくては
ならない…何時までに仕上げる?」
「明日だ…」
そのスレイの言葉に、男は口元で笑みを作る。何とも形容しがたい、独特の笑みで
あった。しかし、その笑みには諦めと云った感情は何一つとして含まれて居ない。
「ならば、一晩ボールを振り続ける事になるぞ?」
「覚悟の上だ…」
スレイの瞳は、確かに闘志に燃えていた。
決して負ける事は許されない
その感情のみで、その純粋な敗北への恐怖が彼女を突き動かしていた。
しかし、男はその瞳の奥に隠れる、もう一つの感情を決して見逃さなかった…


夜が明けた
アイビスはのそりと、引っ被った毛布から頭を出すと、目の前に一人の少女が立って
いた。
ブロンドの髪を可愛くツインテールにして、薄ピンクのワンピースを着ている。
可愛らしい
抱きしめたいほど可愛らしい
「あの…」
「…」
「君は…?」
「…」
ドタドタと地面が揺らいだ。誰かがこちらに走ってくるのだ。それも全速力で…
その音に、女の子は身体をピクンと反応させると、アイビスへと飛び込んできた。
「わ、ちょ、なに?」
「しぃ〜!」
彼女はアイビスの後ろに隠れるように蹲り、アイビスに自分に話しかけないように…
と云う旨を伝える。それと同時に部屋のドアがノックされる。
「私だ!ゼンガーだ!」
早朝にも関わらず、ゼンガーの声はドア越しでもハッきりと聞こえる。
「は、はい…」
「ここに、小さいブロンドの髪の女の子は来なかったか?物凄く可愛い女の子だ!」

「え、えっと…」
恐らく…と云うか、確実に後ろの女の子だろう。確かに物凄く可愛い。
しかし、後ろの彼女の表情から見るに…「ここに居ます」とは言えない様だ。
「居ません…」
「そうか…ったく何処に行ったんだ…」
珍しくブツブツと言いながら、足音が遠ざかってゆく。流石に女子寮の部屋にガサ入
れするわけにはいかず、退散してくれたようだ。
何故か緊張している自分に気付き、溜息を吐く。
「お姉ちゃん…行った?」
「え、ああ…行ったみたいだね」
アイビスとは別に、安堵の溜息を吐く少女は毛布から顔を出して一応周りを確認し
て、恐る恐る毛布から這い出てくる。
そして、一つ息を付くとアイビスに向って満面の笑みを浮かべる。
「ありがとう、ぴっちゃーのお姉ちゃん!」
恐らく、彼女が噂のゼンガー監督の娘さん、イルイちゃんだろう。なるほど、全く監
督の血を引いていない…
「え、ああ…どうも…」
どうにも、小さい女の子とは面識が無いので露骨にどもってしまった。
それも彼女は笑顔を崩さない。むしろ、その笑みを強めている。
「それじゃあ、ぴっちゃーのお姉ちゃん。しょうぶ、がんばってね!」
「え…?」
イルイは無邪気な笑みを浮かべながら、踵を返してドアを恐る恐る開ける。右左を見
てゼンガーが居ない事を確認すると、アイビスに振り返り、満面の笑みを浮かべなが
ら手を振る。アイビスも思わず手を振ろうと右手を上げたが、彼女は急いで出て行っ
たので、アイビスは誰も居ない玄関に向って手を振っていた。
「なぁに…?騒がしかったけど…」
隣の布団で寝ていたツグミが手探りでメガネを探しながら、眠そうに毛布から顔を出
す。
「さぁ…」
アイビスの頭の中には一つの言葉が巡っていた。
『しょうぶ、がんばってね!』
その言葉をグルグルと頭の中で回しているアイビスは、未だに誰も居ない玄関に向っ
て手を振り続けていて、それを不思議そうに見ているツグミの視線など、全く気にな
らなかった。


勝負の時は来た
アイビスは支給された、真っ白なユニフォームに身を包むと、愛用のグローブを手に
ロッカーで一つ深呼吸をする。
アタシの投球に、野球部の命運が懸かっている。アタシの投げるボール一つ一つに野
球部の命運が懸かっている。
緊張して居ないと云えば嘘だ。しかし、昨日よりは幾らか気持ちは楽だ…楽だと思い
たい。
再び深呼吸をすると、ロッカーに掛けてある帽子を手に取るとそれを被り、ロッカー
ルームを後にした。


勝負の時は来た
スレイは第二α高等学校へ向う車の途中、自分の膝に置かれた一つのバットに視線を
送っていた。
必死でバットを振っていて、気付いたら夜が明けていた。圧倒的に時間が足りない。
何度振っても満足できるスイングは出来なかった。
しかし、やるしかない…
もう、野球部は関係無い。これは私の誇りを掛けた勝負だ。
負けは許されない。
一つ息を吸い込むと、視線を上げて目の前に見えてきた木造校舎を睨め付けた。


グラウンドは緊張感に包まれていた。
アイビスがマウンドに上り、残りの七人がそれぞれのポジションに付き、残っている
サードにはレーツェルが付き、投球練習も終わって肩も出来上がった。
後は、スレイが来れば何時でも勝負を始められる。
「なぁ…」
「何?」
まだ、スレイが来ない様なので、ライトのポジションに付いていたアラドがセンター
のゼオラに駆け寄ってきた。
しかし、余り良い反応は示さなかった。これから尊敬するべき人間が敵としてやって
来るのだ。心中複雑である。
「これに負けたら、本当に…廃部なん?」
「そうらしいけど…何、今さら言ってるのよ」
「いや…何か、ピンチの癖に実感が無くて…」
「不真面目!もうちょっと緊張感持ちなさいよ!」
「んな事言ったって…」
ゼオラは一つ溜息を吐くと、アラドに向き直る。アラドは直感的に嫌な予感が走る。

「アンタは何時も何時も!もうちょっと真面目になれないの!?」
「わかった、わかったっての…」
「そ・れ・が!どうにかならないのって言ってるの!」
ゼオラの説教スイッチを入れてしまった様だ。こういった時には適当にあしらってし
まう事が好ましいのだが、スイッチが入ったゼオラをあしらう事が出来れば、こんな
腐れ縁を長く続けている訳が無い。
「わかった!もうオッケーです!これから真面目になります!」
「だから!それが…!」
堂々巡りになりそうな様相を呈してきた時、ゼオラは回りの空気がより一層緊張感を
増していることに気が付く。
振り返った先には、女性が立っていた。
テニスウェアにスコート姿の女性…スレイ・プレスティであった。
「…!!す、スレイ…先輩…!」
しかし、ゼオラは驚愕の言葉を思わず口走ってしまった。
今の彼女には、今までの優雅と云った言葉は似てもに付かず、艶やかなハズの青い長
髪は乱れ、表情にもハッきりと疲労の色が強く残っている。
そして、その豆だらけの左手には一本の金属バットが握られていた。
「よし…始めよう」
ベンチにて鎮座していたゼンガーは、一つ咳払いをしてから立ち上がる。
その言葉に、グラウンドに散らばった八名に走る緊張がピークに達する。特にマウン
ドに登っているアイビスには相当な重圧が掛かっている。
しかし、それは土手の上でアイビスを見下ろしているスレイに関しても同じ事だ。
スレイも負けるわけにはいかない。
「…」
スレイは無言で土手を降りると、ベンチのゼンガーに一つ礼をしてバッターボックス
に入る。
地面を慣らして、アイビスに対して視線を向ける。
非常に鋭い視線であり、アイビスは思わずその視線に怯んでしまうが寸前の所で留ま
る。
「さぁ…始めよう…」
スレイは短く言うと、バットを構える。そのオーラが既に違った。
リトルリーグ決勝の時以来、感じていなかった感覚だ。これほど、打たれそうな感覚
に囚われるのは…
一つ息を吐くと、ロージンを指に絡ませてグローブに収まったボールを強く握る。
「プレイボール!」
アンパイアに立ったヴィレッタが試合開始を高らかに告げる。
ライはまず、外側のストレートで様子を見る事をサインで告げて、アイビスもそれに
頷く。
第1球。両手を挙げてワインドアップの形から、オーバースローでストレートを放
る。
ボールは一直線に外角低めに伸びて行き、ライのミットに収まる。
「ボール!」
ヴィレッタの声が響くが、ライは内心舌打ちをする。全くと云って良いほど反応しな
い…素人とは考えない方が良さそうだ。
ボールを投げ返した先のアイビスも、表情は浮かない。
そして、ライは第二球も外角を要求してきた。しかし、今度は高めである。
こうなったら、どの球で反応するかしらみつぶしに調べてみる。
それに頷いたアイビスは、再びオーバースローでストレートを投げる。
要求どおりにボールはライのミットに収まったが、今度もスレイは動かない。
「ボール!」
ヴィレッタのコールだけが静かに響く。
ライは内心焦っていた。
これが、昨日、今日で野球を始めた人間の見逃し方であろうか?
思い切ってインコースを投げてみるか?しかし、130そこそこの速度で、この目の
前のスレイを打ち取る事が出来るのだろうか?
しかし、一瞬の悩みの後、少し外し気味のインコースのストレートを要求する。
アイビスもそれを予期していたようで、素直に頷いた。
ロージンを指に絡めて、一つ息を吐くと第三球を投げる。
132kmのストレートがスレイの膝上を通過し、ライのミットに収まる。
「ぼ、ボール!」
流石にこのボールを見逃すとは思っていなかったようで、ヴィレッタも思わず戸惑い
を露にする。
このボールは一見したら絶好球に見える。しかし、流石はアイビスと云った所か、絶
好のポイントからはボール半個分外している。
しかし、スレイはピクリとも動かなかった。これが、本当に素人の見逃し方であろう
か?
これは予想外だ。いつの間にか、ボールが3つとなり、ストライクが一つも取れてい
ない。ここで、ライに一つのプレッシャーが生まれた。
もう一つでもボールを取ってしまえば、それで終わる…
ここは、何としてもストライクを取りに行かなければならない。しかし…スレイはや
はり素人である事が一番怖い所である。
果たして、ノースリーで振ってこないと云う確証はあるのだろうか?
変化球を使うか?
それはライのプライドが許さない。決して許さない。
ライは結局、インコース低めのストレートを要求する。今日はこのボールが一番走っ
ている。後の無い勝負だ。強いカードはさっさと切る。
アイビスもそれに頷き、インコース低めへとボールは延びてゆく…が。
キンッ!
鉄バットの上部にボールが弾かれ、白球はライト方向へとそれて行く。
振ってきた…
ノースリーの状況でも、スレイは迷わず振ってきた。
確かに今のボールは若干甘めに入っている。しかし、彼女は野球を始めて2日足らず
の素人なのだ。
ライは奥歯を噛み締める。自分が完全にスレイに遊ばれている状況が許せなかった。
これ程までに苦労するのは何時以来だろうか。
ライは息を一つ吐きながら、ヴィレッタから貰ったボールをアイビスに返球する。
アイビスも内心焦っているようで、表情には先ほど以上に余裕が無い。
「タイム…お願いします」
ここで一呼吸置くべきと考えたライは、ヴィレッタにそう告げると、マスクを取りな
がらマウンドへと駆け寄る。
「大丈夫か…?」
「ええ…」
アイビスの返事は芳しくなかった。スレイの異常な雰囲気を感じ取っているのはアイ
ビスとて同じ事であろう。
「落ち着け…相手を素人と考えない方が良い…」
「アタシに抑えれれるか…」
「抑えてもらわないと困る…」
「言われなくても分かってるよ!」
アイビスは苛つきを抑えようともせず、怒鳴り散らす。ヒステリーの一歩手前だ。
ライは一つ息を吐くと、アイビスに向ってこう言った。
「良いか…お前に自信が無かろうが、この一番…絶対に落とす事は出来ない…そして
この部のエースナンバーを背負うのはお前だ…お前がやるしか無いんだ」
「そんな事…」
「分かったな…今、自信を持てとは言わない。自身を持つのはこれからだ」
自分でも、極めて優しい言葉を掛けたつもりだ。ここでヒステリーを起こされて自暴
自棄になってしまったら最悪だ。
我ながら気の利いた事をしたと思い、苦笑いを浮かべながら戻る。
カウントはワンスリー…次で決まる。
ライは一瞬考えを巡らせた後、インコース高めのストレートを要求する。
これで詰まらせて、内野フライで終わらせる。
その意図が通じたのか、アイビスは一つ頷くとロージンを指に絡めてセットポジショ
ンに入る。
ワインドアップから、オーバースローでボールを力の限り投げる。
133km。白球は一直線にライの構えているミットへと直進する。
しかし、スレイは迷わずバットを振ってきた。しかも、ボールはバットに当たり、何
と後ろに逸れて行った。
この結果に、ライは息を呑んだ。
有り得ない事だ。決して有り得ない事だった。
ボールは確かに自分の要求している所に来た。しかし、実際はボール半個外れたボー
ル球である。
(この女…)
高々130km強の速度のストレートだ。テニスでそれ以上のボールにて動体視力を
鍛えているスレイならば見逃してフォアボールで終わりだ。自分の勝利である。
しかし、彼女はわざわざボール球をファールにして、自らのカウントを悪くしてまで
も完全なる勝負の決着を望んだ。
何とも、脱帽すべき度胸と姿勢だ…これならば、最早アイビスが今日投げられる最高
のボール。インコース低めを投げるしかない。
それをサインでアイビスに伝えると、彼女は静かにそれに頷いた。彼女も最早この
ボールしかないと思ったのだろう。
実際、このボールだけがスレイが唯一振り遅れているボールでもある。
アイビスは大きく振りかぶり、思い切りボールを投げ放つ。
135km。本日最高速の白球は白い軌道を描きながら、スレイの膝元を襲う。
スレイは昨日、男に習ったとおり重心を後ろに引き、前へと解き放つ形で。しかし、
前のめりにならない様に…その力を利用して、ボールを巻き込むようにバットを振る
が、思ったよりもボールの球威がある。
「チッ…!」
豪快な音を響かせて、スレイはボールをライト方向へと弾き返した。
今の筋力では、例え135kmと本調子ではないアイビスのボールであろうとも、イ
ンコースのボールを引っ張る事は出来ない。ならば流すだけの事だ。
ボールはグングン伸びて行く。だが、アイビスが笑みを浮かべていると感じたスレイ
は、ファーストベースを廻った所では厳しい表情を浮かべていた。
ボールは確かにグングンと伸びてゆくが、もう一伸び足りない様で失速を始めてい
る。
幾らかアイビスの球威に差し込まれたようであり、もうアラドが手を上げて落下点に
入っていた。
「ふぅ…」
ライは珍しく高鳴っている心臓を押さえるが如く、メットを脱いでボールの軌跡を目
で追っていった。やはりスレイと云う女は凄い。アイビスの球威によって多少差し込
まれ、ライトからレフトへと吹いている風にも影響されてボールは初めて失速した。

もし、差し込まれないで風も吹いていなかったのならば、ボールはスタンドインして
いたであろう。だが、運も実力の内だ。これで…
しかし
野球部の面々はここで悪夢を見る。
アラドの見上げた先には、人間に恵みを齎してくれる太陽の姿があった。
太陽の眩しさに、アラドは思わず目を瞑ってしまう。次の瞬間、ボールはアラドの目
の前のポトリと落ちた。
スレイを含む、その場の全員が凍りついた。
「え…?」
アラドは何が起こっているのか分からない様子で、呆然と目の前に転がっているボー
ルへと視線を送る。
「ふぇ、フェア!」
ヴィレッタの言葉だけが、グラウンドに空しく響き渡った。


男は自前の500ccのバイクを校門の前に止めて、ヘルメットのバイザーを上げ
る。
木造の年期の入った校舎を見て、一つ溜息を吐く。
「全く…あの人は何やってるんだ…」
端整な顔で呆れの笑み浮かべる男は、再びバイザーを下ろしてバイクを敷地内に入れ
ようとするが、ふと後ろで車のクラクションの音が響いた。
「ん…?」
思わず振り返った男の視線の先に、一台のマーチが蛇行運転を繰り返しながら猛ス
ピードで突っ込んでくる。
「いっ!!」
男は、その余りのスピードに動くことが出来ない。
マーチの運転手は目の前の男の反応を見て一瞬だけ、その形の良い唇を歪めると思い
切りブレーキを踏み込んだ。
アスファルトにタイヤを激しく擦りつけながら、盛大な音を響かせながらマーチは男
の寸前で見事に止まった。
「…」
「ハロ〜キョウスケ〜お久しぶり〜♪」
マーチの窓から一人の女が顔を出した。
栗色の長髪を後ろで一まとめにして、太陽のような笑みを浮かべている女。
エクセレン・ブロウニングである。
そして、言葉を失っている、エクセレンに「キョウスケ」と呼ばれた男は一つ溜息を
吐くと、ヘルメットを脱ぐ。
「エクセレン…もうちょっと普通な挨拶の仕方は無いのか?」
「あら、意外と淡白な反応〜」
「そう云う事を言ってるのではなく…」
「まぁ、気にしな〜い♪」
エクセレンは全く反省の無い口調と笑顔のまま、マーチを校門の前に横付けして車を
降りる。
フォーマルスーツ姿であり、タイトスカートなども着込んでいる。エクセレンにして
は珍しく真面目な服装だ。
「あらん?そんなにスーツ姿の私が良い?」
「ふぅ…お前にしては珍しく真面目な服装だと思ってな」
「ふむ…知的な路線で行けば良し…か」
「何か言ったか?」
「い〜え。何でも〜」
相変わらずの笑みを浮かべているエクセレンに、キョウスケ・ナンブにも思わず笑み
が毀れる。
こう見えても、2人は約三ヶ月ぶりの再会であり、しかも、2人はこの再会も予期し
ていない。しかし、そんな事を感じさせない所が2人の絆の強さなのであるが、流石
に三ヶ月もあってなければ話す事は沢山ある。特にエクセレンは話したい事が山の様
に積もっている。
さて、これから何を話そうかと考えを巡らせたとき…
「すまない…」
台詞こそ偉そうであるが、一人の女の子の声が響いた。
2人は同時にその声の方向に首を向ける。
一人の少女が立っていた。
その激情なる性格を象徴するが如くの燃える様な赤毛のショートカットを持ち、見た
目には可愛らしい少女であった。
「学校関係者か?」
「「はい」」
思わず2人同時に答えてしまい、顔を見合わせる2人。そんな2人に細く笑みを浮か
べる少女は、手に持っていた大きな封筒をキョウスケに渡し、こう言った。
「今度の土曜日…α学園高等部野球部は第二α高等学校野球部に対して練習試合を申
し込みます」


次回予告
ライディース・F・ブランシュタインだ…
全く…何で私がこんな事を…
不本意ながら次回予告をさせてもらう。
アイビスとスレイの対決には一応の決着は付き、形はどうあれアイビスは敗北した。

しかし、スレイは野球部に対して思わぬ提案をする。
そして、遂にα学園高等部野球部監督、イングラム・プリスケンが動き出す…
次回、我ら!第二α高等学校野球部!!
第七話 赤い戦慄
それでは次回もお楽しみに…
パロディは絶対にやらんぞ…


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